マスコミはかつて「第4の権力」として高い信頼を得ていたが、使命感の肥大化は結論先行や演出の正当化を招いた。インターネットの普及によって報道は検証される対象となり、同時に情報環境をめぐる世代間の分断が生じた。ネットに触れない層には、報道を正義とみなす単純な世界観と評価軸が残り、権力批判を続ける報道が支持された。マスコミはその支持を失わない振る舞いを選び、批判報道は次第に自己保全の手段へと変わっていった。こうしてペンは、社会を切り開く剣から、自らを守る盾へと変質した。
マスコミを「マスゴミ」と蔑称する風潮が世に出て久しい。かつては社会の公器と呼ばれ、強い信頼を集めていた新聞やテレビは、いまや冷笑の対象になってしまった。これは、急に大きな転換が起きたからではなく、価値観、構造、経済環境などの変化が少しずつ積み重なった結果だと考える。
「第4の権力」であった時代
ジャーナリズムの根底には、武力ではなく言論で権力を監視するという理想がある。いわゆる「ペンは剣よりも強し」だ。まだ情報源が新聞やテレビに限定されていた時代には、マスコミは行政・立法・司法を監視する第4の権力として機能していた。報道内容はそのまま社会の共通認識となりえた。報道する側には、自分たちが社会を正しい方向に導くのだ、という強い使命感があった。受け手も〔私も〕またそう信じ、マスコミに信頼を置いていた。
しかし、強すぎる使命感は、目的が正しければ手段を問わないという独善を招きやすい。その一例として、記者自身がサンゴを傷つけ、それを撮影するという毀損・捏造事件が起きた。そこには、環境破壊を訴えるには、事実を積み重ねるよりも、結論に合わせた絵を作る方が手っ取り早い・・・という傲慢な内部理論があった。このような論理が、やらせや過剰演出を正当化する温床を作っていった。
インターネットによる相対化
2000年代以降、インターネットによって情報構造が大きく変化し、一次資料や公的文書に直接アクセスできるようになった。事件現場に居合わせた個人が撮影した映像や、特定組織の内部を知る人物による告発も、SNSを通じて瞬時に拡散するようになった。そして、報道の誤りや偏りは、即座に検証・可視化されるようになった。マスコミが報じる情報は唯一の事実ではなくなり、人々はマスコミの恣意性を疑いはじめた。
しかしその一方で、この新しい仕組みは、根拠の乏しい噂や悪意あるデマの拡散にも寄与した。ネット上の真偽不明な情報に価値を見出し、各自が、自分の価値観や意見にあう情報だけを摂取するエコーチェンバー化が起きた。マスコミはこの環境変化に対し、ネット上の情報は信頼性に欠け危険だ、と切り捨てたが、その上から目線の論調は、ますます人々の不信感を煽った。しかも、マスコミ自身が、価値観と意見が合う層だけに向けて都合よく編集した報道をしている。その姿をみると、言動に矛盾を感じざるを得ない。…まさに、おまゆう〔お前が言うな〕だ。
インターネット普及に伴うメディア離れは、マスコミの収益に影響を与えた。部数減少、視聴率低下にともなう広告収入の減少は、一次情報の取材や検証に時間・コストをかける体力をマスコミから奪っていった。結果、ネット上の話題を追いかける後追い報道や、他媒体の報道内容を検証もなしに全く同じ論調で二次報道する傾向が高まった。情報の鮮度と深みは失われ、古い価値観を押し付けるマスコミの姿は、皮肉を込めて「オールドメディア」と呼ばれるようになった。
情報を独占できなくなった後も、マスコミは物語を作り続けようとした。発言の切り取り方、グラフの不自然な加工、事象の表裏を公平に扱わず一方だけを取り上げる…など、印象を誘導する技法は洗練されつつも、次第に露骨で醜悪な形に向かっていった。さらに誤報への対応も不適切だった。目立たない訂正、責任の所在を曖昧にする説明、組織の面子を優先する姿勢は、間違いを認めないマスコミの特権意識だ、と更なる批判を招いた。
当然、すべての報道機関・新聞社・出版社がこれに当てはまるわけではない。さらに、グレーだと目される組織内の全ジャーナリストが与しているはずがない。だが、自浄作用が働いていないと疑われる事例が、時代とともに増えている点は無視できない。なぜこうした傾向が是正されにくいまま、積み重なってきたのか。
報道の受け手の変化と分断
その原因の一部は、報道を受け取る読者・視聴者の側にもあると考えている。
報道姿勢が変わり始めた初期は、視聴者の多くがその変化に気づかなかった。変化は少しずつ進行したため、日常的に接していると違和感が認識されにくかった。むしろ多くの読者・視聴者は、従来どおりマスコミを信頼し続けた。報道内容に疑問を持つ材料も手段もなく、提示される問題や価値感に自然と誘導される層は少なくなかった。その傾向は現在でも一部に残っている。
やがてインターネットによって、報道内容を検証する文化が生まれるが、日常的にネットに触れる世代と、ほとんど触れない世代との間に、情報認識のギャップが生じた。ネットに触れる世代は比較的年齢が若く、一次資料や別視点の情報に接して、報道内容を相対化するようになった。一方で、インターネットにあまり触れない世代にとっては、そうした検証は存在しないも同然だった。報道がネット上で批判・検証されていても、それが視界に入らなければ、認識は変わらない。
新聞購読者やテレビ視聴者の中心は、相対的にインターネットとの接点が少ない層であり、広告や購読料といった主要な資金源もそこに依存している。そのため、マスコミがインターネットを軽視し、ネット上の批判や検証を重視しなかったのは、ある意味当然だったろう。主要な顧客が知らないネットの評価は、切実な脅威として認識されなかった。
しかし、そこにはもう一つ大きな問題があった。それは、報道を信じ続ける層の世界観がいまだに古い、という点だ。
曰く「報道は正義であり、政治や経済は本質的に悪である。」
こんな二極化した図式が、この層の世界認識の根底にある。この図式のもとでは、報道内容の妥当性や事実関係よりも、「誰を叩いているか」が評価基準になる。
マスコミが政府や権力を強く批判している限り、報道姿勢そのものが正義であると評価される。逆に、批判せず、政策を支持していたりすると、それだけで「生ぬるい」「権力に迎合している」と受け取られやすくなる。
こうした評価基準のもとでは、野党が与党を批判する、弱者が強者に抗う、疑わしいというだけで容疑者を叩く・・・そんな報道が横行しやすい。インターネットに触れない層は、異なる視点や反証に接する機会が乏しい。そのため、報道が作る善悪二元論は修正されないまま維持される。権力を強く批判すれば称賛され、少しでも距離を取れば非難される。政府批判を続ける限り、自らが正義の側に立っているという評価を一定の視聴者層から安定的に得られる状況に、マスコミは靡〔なび〕いてしまった。
その結果、報道は事実をどう伝えるかよりも、どう振る舞えば評価を失わずに済むか、という判断を迫られるようになった。批判報道そのものが、マスコミにとって自己保全の手段になったわけだ。
このような振る舞いの背後には、情報を伝える役割は自分たちにある、というマスコミの自負が残っている。複雑な背景や因果関係をそのまま提示しても、背景や前提まで追う機会の少ない受け手には伝わりにくい・・・だから、自分たちがこれを解きほぐして伝えなければならない、という思いだ。かつては崇高な使命感だっただろうが、いまとなっては、やや傲慢に映ってしまう。
こうして、「わかりやすく伝える」ことが重視され、その過程で物事は整理され、単純化され、善悪の対立構図へと翻訳されていく。本来、世界は複雑だ。政治も経済も、単純な善悪で割り切れるものではない。しかしマスコミは、その複雑さをそのまま伝えるよりも、理解しやすいパターン化・単純化を優先してきた。その結果として、同じ図式と同じ評価軸が、繰り返し再生産されていった。
切り込む剣から守るための盾へ
こうやって形作られた評価軸と伝え方の先に、現在のマスコミの姿がある。事実にもとづいて権力を批判する攻めの立場から、自組織の正当性や存在意義を維持する守りの立場へと追い込まれている。
防戦に回った結果、マスコミは、冷静な検証よりも感情を刺激し、賛同を得やすい表現を優先する。事実を積み上げるより、不安や怒りを煽って自らの存在を誇示する。批判の矛先は具体的な不正の検証ではなくなり、政治や経済全体への攻撃自体が目的となる。無罪の可能性を丁寧に扱うより、決めつけて糾弾・非難する。被害者の尊厳をないがしろにした粘着、世論の関心を引く暴露を優先する。
こうしてペンは変質した。真実を貫き道を切り開く剣であることをやめ、自らの立場を正当化し批判から身を隠すための盾となった。その強さを内向きの防御に使い始めたとき、ペンは「マスゴミ」という蔑称とともに、その真の力を失った。
本文終り
補足:さらに別の可能性
以下は、本文とは別の視点からの推察に過ぎないが、補足として記しておく。
おそらく、マスコミの報道姿勢の変化には、特定の思想的背景を持つ団体や国家からの資本流入の影響もあると考えられる。人によっては、0:100でそれが原因だと考えるかもしれない。資本が抱く思想による世論誘導は、視聴者や読者への迎合よりも、はるかに重く、そして悪辣だ。ペンは敵に奪われた剣となり、我々に向かって振り下ろされるのだから。

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