創作〔ストーリーもの〕

はじめて物語を書いたのは小学生の時、国語の授業でだ。本屋で本を落として汚してしまい、逃げ帰るが、その後、謝りに行こうと決心するまでの心の葛藤を描写する話だった。決心をする転機に無理があり、自分では気に入らなかった。中学・高校ではごく僅かな短編のほか、映画の原作・脚本も担った。が、これらも話の展開が自分では気に入らなかった〔一緒に作り上げた仲間には失礼極まりない…〕。

大学時代にひとつだけ、筋書きに無理を感じない作品が執筆できた。一目置く友人から「ストーリーテラーとしての力量がうかがえる」と評され、嬉しかった。45,000字ほどの短編だったが、以後、これを超える〔と自分が納得する〕作品は執筆できていない。この時に燃え尽きたのである。

社会人になってから書くストーリものは、長くても数ページ程度にとどまり、社内誌/機関紙に載せるトピックのようなものだけだった。それなりの評価も得たが、長いストーリーを書きたいという思いと構想は、ずっと抱き続けていた。

実は一度だけ、一般誌に小説を連載したことがある。知り合いの編集者が〔何を思ってか〕自分に小説執筆を持ち掛けてきたので、悪乗りで承諾した。だが、編集からの要望は少々ふざけた設定だった。それのため、自分とはまるでちがう感性が要求され、苦しむ羽目に陥った。それでも1年間連載を続け、その間、編集は何も語らなかったが、おそらく、期待には応えられなかったと思う。自分にとっては黒歴史となっている。

こうしてみると、ストーリーものの創作は、ほぼ惨敗している。多くは、展開がこじつけに見え、納得できていないためだ。思えば、商業作品を読者/観客として見ていても、展開の動機・転機・必然性に納得できないことが少なくない。予兆としては「はらはら・どきどきする」というより、「作者はこの先の展開、どう決着をつける/折り合いをつける積りだろう?」という心配が頭をもたげてくる。その時自分は、作品世界に没入していない。作る側の目線で落とし前のつけ方をいくつも想像しながら、作者がどういう選択をするか見守っている。そして、決して少なくない確率で、作者の選択に納得できず、がっかりする。

自分では成し遂げられなかったひねくれ者が、おこがましくもプロと同じ立ち位置をとって、作品を批評している訳だ。そんな脇道に思考が逸れるスキを与えない作品は、心から没入し楽しめているのだが。

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